2009年09月29日
学校に行けない、17歳の女性のメ-ルです。
学校に行けない、17歳の女性のメ-ルです。
母親とたじまやプラザ(http://www.tadimaya.co.jp/plaza.html )、
http://fukinoto.naturum.ne.jp/
に出向いてくれて3ヶ月余・・・・・
お読みいただいた、感想等お知らせいただければと思います。
A4 23pです。長文です。時間のある時にお読み下さい。
090929-じぃじぃへ.doc
******
From: +++++.*****@ezweb.ne.jp
To: himejiwakamono@yahoo.co.jp
Date: Tue, 29 Sep 2009 14:19:08 +0900
学校に行けない、17歳の女性のメ-ルです。
母親とたじまやプラザ(http://www.tadimaya.co.jp/plaza.html)、http://fukinoto.naturum.ne.jp/
に出向いてくれて3ヶ月余・・・・・
お読みいただいた、感想等お知らせいただければと思います。
G-gへ
Sはやっと、自分の幸せについて歩き始めたように思えます。
毎日家の中でコツコツと成長していっています。
こうして向かっていく先(幸せな自分)が見えてきて…最近思うことがありました。きっとほんの少し心の深い所で余裕が出てきて…それは
やはり幸せになり歩き始めると(成長し始めると?)過去の事は忘れてしまうという事です。
今日は久し振りに親にまだ甘えてる自分を思い出す出来事がありました。今はイライラしてます。
子どもはやはり親の前では甘えた人格が出ると思います。少なくとも私はそうです。親に対して期待が出ます。
でもきっとこれはチャンスです。今日イライラしたことはこのメールの為の最後のチャンスな気がします
だから書きます
読んで下さい
これは過去
多重人格障害
うつ
引きこもり
不登校
自己臭恐怖症
そんな病気だった私の話しです
私は元々
かなり自由奔放な子だったそうです。(そして優しすぎた)
お父さん・お母さん・3つ上のお姉ちゃんが大好きな4人家族の末っ子。
1992年5月25日に生まれました。
感情を出すからもの凄い表情豊かでひょうきん♪
2歳くらいの頃には体操教室で体操なんて全くせず、一人走り回る子でした(笑)ちなみに同じような仲間も連れて(笑)楽しい事しかしたくなかった。
いつも悪ふざけばかり★
そんな頃カナダに行きました。始めて行った日はよく覚えています。
子ども心にビックリしたのかな。時間の流れや人種の違いを感じとったんだと思います。
みんなで卓袱台で(卓袱台(ちゃぶだい)は、大正から戦中を経て、昭和40年代にかけて、日本の家庭で一般に用いられた四脚で折りたたみのできる木製の食卓(テーブル)。食卓としての利用が基本の用途だが、机や作業台としても利用される汎用の座卓である。楕円形や四角形の物もあるが、一般的には円形をしている。)
マックを食べました(笑)
そして今からが精神的に大変でした。
うちのお父さんは子どもに甘える父親でした。
私は甘えたがりなのでいつも抱き付きました。でもその度孤独や怒りや悲しみが増えました。
お父さんに抱き付く度に心の葛藤があり、複雑な気持ちでした。
それはくっつく度に「お父さんとお母さんどっちが好き~!?」
など質問されるからです。
質問と言いましたがそれは、いわば脅迫でした。
その言葉の裏に
父の日々の疲れきった気持ち。「絶対に俺だよな!?俺じゃないと・・・・・」のような、とても繊細な心を子ども心に感じていたからです。
自分の本心・本音はいつも隠していました。
大好きなお父さんだからこそ傷ついた。
上のものに下の者が抑えつけられる。
私の心をネジ曲げられた気持ちでした。
心の奥ではとても悲しかった。いつもいつも。
でも、それでも父に甘えたかった。
私はどんどん「気遣い」な子になっていきました。
大きくなって思うのはカナダでは慣れない土地で皆大変だったと思う。
でもその頃は
母の笑ってはいるけど疲れた表情。
そしてとても繊細な姉の情緒不安定さと悪意を肌身に感じていました。
辛かった。
ちなみに
うちの父親は私と姉をえこひいきしていました。
これは大きくなって、自分が学校に行かなくなって初めて知った事でした。
私ばかりを可愛いがり、姉には…まあどちらかというと冷たかった。
やはり母も末っ子の私をある程度可愛いと育てていたと思うし。
繊細な姉はやはり暮らす中で両親を盗られた嫉妬・怒り・虚無感をいつも感じていたと思います。
今でも姉は 結構 私の事を「Sばっかり」と責めます。
そして「私は愛されなかった」という強烈な劣等感を持っています。
私はそういう方面にはわりかし無頓着でしたが(涙)
そして話しはカナダに戻ります。
ある日 そんな父親に決定的に絶望??・・・・したような時がありました。
彼が私にプレゼントと言って可愛い「ミニーちゃんのヌイグルミ」を買って来てくれました。
嬉しかった。
ここまではいいです。だけどハッと父の顔を見た時幼い心に妙に悟りました。
「あーこの人には甘えられないんだな。(信頼できない。心が繋がれない!)」
それは「ありがとうと御礼を言え!!!!!!」と父の表情からヒシヒシと伝わってくる心があったから。
そして私にはそれまで生まれてから甘えてきた時、逆にいつも甘えられて「この人といたら自分を隠して何か言
ったりしなければ!!」みたいな脅迫観念があったから。
ミニーちゃんの出来事は決定的に心がなんだか寒くなった瞬間でした。
その時はもちろん精一杯の笑顔で「ありがとう!」と言いました(涙)
親は嬉しそうな子どもを見てるだけで嬉しくなって、子どもも自然に感謝するものと私は思います。(なんだか
批判みたいになっていますが・・・)
だけど、その時の父親には、親の、子に対するエゴを強烈に押し付けられ、見せられた気がしました。
私は本当に悲しかった。何かを諦めようとした。
しかもその出来事の前からもう関係は私の中で崩れて来ていました。
そうしてカナダで過ごした幼少期の2年間が終りました。
日本に帰国。
その頃は3・4歳かな。
今度は、そこから小学1年生の夏まで日本で過ごしました。
日本に帰ってきた事で姉もようやく落ち着いて来た頃でした。
しかし今度はオランダへ。私は転校に対する不安はその時はあまり感じませんでした。
オランダの学校や土地は好きでした。楽しかった。親友もいたし、社会の中、私は充実した日々を送っていました。
だけど
家はいつも辛かった。家族といる時間を重ねるにつれ、心は貧しくなっていった気がします。
まず母親はまた慣れない土地が大変で疲れていたし。
お父さんも仕事がまた大変になり、どんどん精神的に荒れていったように思います。
そしてお姉ちゃんは大嫌いな転校(しかも海外)をまたした事で同じく荒れていました。
父と姉の二人はよく喧嘩しました。タワイもない事で。
父は姉と同じ精神レベルまで下がって二人して子どものような醜悪な喧嘩をします。ネチネチしていました。
父はもちろん父親として「叱る」事もありましたが、まあ遥かに!!
二人してただエゴのぶつけ合いが多い。多すぎる。繰り返す。
間に入っている母はいつも苦労していました。
姉の私に対する劣等感や転校に対する悲しみが解消されないまま、喧嘩の度に家族の亀裂はどんどん深まってく
ように見えました。
そして私は本当の自分を出せずどんどん「気遣いばかりする人間」になっていきました。
自分なんて無い。
心の傷は癒されず私の中に劣等感や苦しみはどんどん蓄積されていきました。
だけど学校が救い。あそこに行けば誰も私を傷付けない。
劣等感と言いましたが当時の私の悩みは「見掛け」でした。
キッカケは残念ながら姉が多いと思います。
姉からはよく見掛けの事をコケにされました。
「誰が見たってあんたよりあたしの方が綺麗に決まってるじゃない。当たり前でしょ!?なんなら鏡で見比べようじゃない」など。
元々自分にそんなに自信が無かった私。
心に突き刺さりました。写真を撮っても「変な顔~♪」と笑われたりしました。
苛められて辛くて我慢しても、初めて姉の前で大泣きした時にも「変な顔~♪アハハ」と楽しそうに笑っていまし
た。
自信が無かった私。言葉にさんざん傷付きました。でも何が一番傷付いたかって「私を傷付けよう」そんな気持ちが透けてみえる悪意に。
その心にいつも傷付きました。ショックだった。
人が辛くて泣いている時、こんなに笑う人間がいるんだ....
そして私はどんどん「そうかー私は変か。 そりゃあ美人じゃないのは知っていけど私はブスなんだ」
とドンドン思い込んでいきました。
正直、姉への見掛けに対する劣等感も段々出来ていったし(一度も表には出さなかったけど)見掛けに対するコンプ
レックスもどんどん大きくなっていきました。
小1の頃から鏡で自分の顔を見るのが嫌でたまらなかった。
写真を撮る時はいつも変なポーズと変顔をした。
ほら、こうしておけば笑われたってバカにされたって少しはまし。
まあでもこれもある日(し始めてから何年かたって)やめました。
その時の私には屈辱的なことに、姉に言われたからです。「まともに写真撮ってよ!!!」と(笑)
「いやいや、貴女が恐いから(色んな意味で)こういう事してるのに!!」など怒りや悲しみを伝えることは全然
出来ませんでしたが。
だって旅行中で周りに親がいたし、私が泣けばお父さんとお姉ちゃんがまた大喧嘩し、家がどういう空気になり
母がまたどれだけ悲しむかが頭の中で手に取るように想像出来ました。いつもその中で暮らしている私には分かっ
ていました。
まあそんなこんなで
小学4年生になりました。
家で父に気を遣いすぎている私。姉に気を遣いすぎている私。
顔を批判されるのが恐くて二人と目をしっかり合わせて会話が出来ない私。
でも気を遣って、もうそのスタイルしか知らなくていつも笑っている私
そんな私のまま。
夏休み日本に帰国しました。
この時初めて転校が嫌だと思いました。
私の心の支えになっている学校が変ってしまうから・・・・・不安
親が言うから仕方ない。そんな感じで自分を納得させたように思えます。
最初はA小学校。(私はあまり受けなかったけど苛めが酷い所でした)
もう精神のバランスが崩している私は学校でも友達は出来ましたが気を遣う本当の自分を出せない心の奥では見掛けの事を言われないかとビクビクしながら、言われたら更に自信を失って「心の引きこもり」そうなりながら学校生活を送っていました。
本当はいつもひとりぼっち。誰か安心させて
家の都合で
一学期間たって今度はH小学校に転校。小4の三学期。
ここでも「心のひきこもり」のまま中学まで上がりました。友達はいたけど、友達じゃなかった。
私の見掛けコンプレックスは思春期に差し掛かりどんどん強烈になっていきました。
そして家の父・姉・母のバランスもどんどん崩れていきました。
父はもう精神的に追い詰められてきて、ついには私にまで八つ当たりを始めました。ネチネチ とした嫌がらせ
そんな父を見てついに母も我慢限界
中学に上がる頃
ある日荷物をまとめてこっそり母と姉の私の3人で家を出ました。
別居
でも安心なんてなかった。私には家が狭くなったぶん、姉と顔を合わせて苛められる機会も増え、母と姉のスト
レスをビンビン感じて暮らしていたから。
三か月で8kgの激太り。ニキビもぶっつぶつ。
私はどんどん自分が嫌いになりました。
今思えば
ストレスを自分が劣等感を持つ事でいつも解消していたように思えます。
悪循環
もう学校に行く気力さえ無かったのに
家族と世間の渦の中頑張る事しか知らない私。
自分を大切に出来ない私。
大切なものが見えなくなって価値観が歪んでいっている私はもう疲れすぎて学校に行く気力さえなかったのに母に嫌われる事が恐くて、もう、お願いだから嫌わないで欲しくて(母が唯一のまだ安心で、優しい人に触れてきた経験がなく、いつも父や姉に見捨てられないか=殺されないか)と思っていた私は
それでも中学を通い始めました。別居する前に好きで入った塾にも通ってました。
親に申し訳ないから。
もう好きな塾さえ行く気力なんて無かったのに。それでも、何も分からないから。
頑張るしかない。
頑張る=人生だと勘違い・・・・・思い込んでいました。
中学では男子や女子に見掛けの事を言われました(太ったニキビ面だったし)
毎日毎日
友達もいなくていつも寂しくて死にそうだった。そうだからこそ笑うしかなくて、傷付けられて嫌な人達なのに明るく皆に振る舞ってピエロになるしかない。
家と同じ。
お願いだから
皆私を好いて下さい
あの頃の私は生きる為にしがみつく事しか出来ませんでした
全てにしがみついて必至でした
成績優秀の先生に好かれる優等生
でも
いつでも心は劣等生。そんな毎日でした。
楽しいことも嬉しいことも感謝も幸せなんて論外で機械みたいにマシンみたいに走り続ける事しか知らなかった。
それが全てだと。
何処かで絶対間違っていると思いながらも
そうして
その頃私は柔道部。小学校の頃からのグループの子達皆で入りました。
中学の一年生・夏まで。
ある日仲間はずれにされて無視されたから、今でも理由は分からないけれど
ギリギリの私にはそんな事実耐えられなくて部活をやめました。
本当に中学校で頼る人がいなくなった私には、その頃、友達が欲しくて溜まらなかった。
自分が傷付いてもいいから、だから一人はやめて欲しい。
今、思うと、そんな悲しい考え方ありません(涙)
相変わらず成績優秀で教師受けは良く塾には親友がいたから通ってました。
私はこの頃には…というか今思えば昔から。
自分を全否定する性格でした。
だから「頭が良い」事もなんの自信にもならない。
自分が頑張っている事も(頑張っている事さえ気付いてなかった)褒められても全く受け取れない。
でもそれは今思うと私の防御でした。
自分を否定する事でなんとか自分を保ち守っていた。そんな気がします。
私が求めているのは自分に対するほんとの自信や愛だから、
昔からきっとそうだから、
「頭がいい」なんてバカな言葉・安い言葉もウザくて、そんなものいらなかった。悲しくなるだけだから。
こういう事言うと親は「色んなこと褒めて来た」と言います
が
褒められて子どもが嬉しいのって子どもと信頼関係があるからこそでしょ?
要は「心の繋がり」がないと「褒め」は素直に受け取れないものだと思います。
あるいはまあその子が自分に自信があるかどうか、もちろん性格もあると思いますが
親が甘えさせてあげた事・子どもが感謝した事・親って凄いなあと思った事・一緒に心から笑い合った事そういう良いものが、思い出が、心の下地が信頼が積み重なって始めて子どもの心に「凄いね。」が響くんだと思います。
子どもだって生きている。
人間対人間なのに。みんな心があるんだから。
上と下。甘えあい。エゴのなすりつけ。
そんな悲しいことないよね・・・・?
て話しずれました(笑)
話し戻ります
中一の二学期からバスケ部へ転向しました。
もう何もする元気なんてトウにない癖に。
だって寂しすぎるからだって好かれたいからだって友達欲しいからバスケ部はクラブかと思うぐらいキツかった。
コーチが厳しくて熱くて強いチームでした。
もう途中から入った私はやっぱり人間関係で苦労。
先輩は恐いし(笑)先輩には嫌われてました。
みんなの輪の中にいるのも大変。
途中から同級生の子たちとは段々馴染めましたが。
そして
要はこんな感じです。
中学の大半は学校・部活・塾で目まぐるしかった。成績もトップの方のまま。
苦しい私をいつも支えてくれたのは塾にいる二人の親友でした。
何も学校の事や苛めの事、家の事なんてガッツリ話せないし相談も出来ない。
やっぱり何処かで嫌われたくない自分がいて。
話したくない、話せない、恐い。
だけど二人の存在がいつも救いでした。
二人は今でも友達。
あっ!!!
家はこの頃また一家四人で暮らしていました。
やっぱり大人の事情もあり、もう家族の絆もボロボロで離婚する前以上にドンドン父も荒れていきましたが、なんとか前の家でみんなで続いて?・・・いました。
そうして
中学二年生の冬がやってきました。
学校も家族も相変わらず。塾が救い。
この頃私の体に異変が起こり始め・・・・現われてきました。
「本能的に体がおかしい!イライラする!」と感じ、病院を回り、たどり着いた「整体」で言われた事
「もう50歳60歳くらいの体になっています。普通はバスケなんて絶対出来ないし、歩く事さえ辛いはず」
そんな風に言われました。
私の体は老人のようにガタガタに骨が歪み痛んでいました。
私には凄いショックでした。
体=見掛けに劣等感があり人一倍気にするし、気にかけて綺麗になりたいと努力する気持ちもあるぶん。
頑張ってきてくれた体に対して私は「皆より劣ってるんだ。やっぱり私はダメなんだ」なんて当時は考えました。
やはり人間いくところまどいかないと異変には気付かない。
ストレスでいっぱいの心から体がサインを出してくれていたのに。
この頃は勉強の方もやっとトップになれたけど嬉しくなかった。
本当は欲しくなかったそんなもの。だって幸せでも何でもないから
この頃からバスケ部はお休み。
またその人間関係もグシャグシャしてくるし、中3になった頃で受験も迫って来ました。
なのに、心はボロボロだし、老人のようなリハビリを頑張りながら学校に通う日々。
骨盤ベルトがないと生活が出来ない。
学校も休みがちになってきました。だって辛すぎる
私の頭の中にはこの頃前にもまして沢山の不安がありました。
まずは体
頑張って塾に通ってきたのに、休みがちだから内申のこと
私を見る母の目
私は母の理解を得ながら生活している事が一番辛かった。
こうやって自分が学校を休み始めて母から色んな事を聞かれるし、聞かされ、責められる事もある。
嫌われるんじゃないか。
というかもう、嫌われているからなんとか好かれなくちゃ!!という母に対してギリギリの思い。
母も長年疲れていて私にかける優しさももう無かった
母も父も姉もどうせ自分の事でもう精一杯
わたしも。
そして中3の春、うちは離婚しました。
離婚の悲しみなんてそんな幸せな気持ち。
私には無かった。
お父さんは出ていった。
お姉ちゃんも家を出て一人暮らし。
広くなった家に母と二人。
でも私は自分の生活で精一杯でした。
そしてもう恐い二人がいなくなったのに
玄関がガタガタっとする度「ビクビク」っとする癖は抜けないまま
私の時間はすぎ受験は近づいていきました。
母との関係もドンドン悪化。
私は私の理解者が甘えられる人が欲しくてたまらなかった。
必至だった。
リハビリをしながら心に色んなシガラミを抱えて生きながら。
そうした時、ふとした御縁で九州のおばちゃんに出会いました。
おばちゃんは霊とか見える人で占いをしたりしていました
要は私にとって母よりまだ信じられるし助けてくれる存在でした。
親切にしてくれました。(ホームステイさせてくれたり)
おばちゃんに助けられ私の体も回復していきました。
中学三年生の夏休み。
私は毎朝6時に起きてお弁当と朝食を作り、犬を散歩に連れていきながら、塾に通っていました。
体も痩せてきて…自分でいうのもなんですが綺麗になってきました。
でも相変わらずますます見掛けに対する以上なこだわりがありました。
綺麗になる事で逆に増えていった気もします(涙)
しかし綺麗になったと言いましたが表面上の事。
自分を全否定のあたしは努力も結果も自分に対する何も認める事は出来ませんでした。
自分は大嫌い。綺麗な訳ない。
だからやっぱり
ほら、褒められても嬉しくない。
そんな私。
そして中学三年生の2学期が始まりました。
内申にとって目指していたトップの高校に行く為、大切な時期でした。
学校に行くとみんなが見掛けを褒めてくれるようになりました。
嬉しい・・・・・・・・・・・・・・だけど
嬉しい訳がない。
逆に空しかった。
だって
自分の事自分で認められないから。それが一番欲しい事だから、きっと。
頑張っても、頑張っても空しかった。
そして私は相変わらずますます、いっぱいいっぱいな精神状態。
おばちゃんに電話をかけまくる始末。
今思えばいつも愛の厳しい言葉をハッキリ私に伝えてくれたおばちゃん。
でも私はおばちゃんに母を求めていた・・・それぐらい依存していた分いつも
その言葉の数々に
心の底で、激怒して傷付いていました。
でも、ねぇ
しがみつく事しか知らないから。
嫌われたくないから、好かれたいから、だから
また電話する。
憎しみが増えていく。
ごめんね、おばちゃん
おばちゃんは私みたいな不登校児の精神状態…気持ちなんて分からないだからこそ
良かれと思って、いままで私が関わってきた大人と同じように、それ以上に叱咤激礼
「頑張れ!!!頑張れ!!」時には責め苛んできます。
辛かった。嫌でたまらなかった。本当はね。
私はいわれるまま。
自分の全てを押し殺し(今だったら まじ有り得ない!考えられない!)
学校に通いました。
塾と学校の往復。
そうしてそんな生活ある日
私にとって、本格的に精神病になるキッカケになった大変な事が起こりました。
それは、オナラ。屁です(笑)
でも当時は笑い事じゃない。恐怖そのもの。
塾のテスト中でした。
私のお腹は痛くも無いのに、肛門から一呼吸する度に屁が出続けました。
体がおばあちゃんのようにこわばっているのに気付いてからは、体の事に敏感でますます劣等感のあるあたし。
しかも体がいう事を聞かない怖さを知っている私には
恐怖でたまらなかった。
でも、それでもその場で居続けテストを受けました。その恐怖の時間の積み重ねといったら
そしてついに私の心はおれました。
その日を境にお腹と不安の悪循環かオナラが出始めました。
学校に行くと いつも いつもずっとオナラが出て止まらないのです。これは事実。
誰に臭いと言われた事もないけど
女の子の私にとっては誰にも言えない。もの凄い 恥ずかしくて辛いこと
「臭いんじゃ ないかな!人に嫌われてしまうんじゃ ないか!」と
今までの心の癖も全て症状に出てますます
気持ちも心も悪化。
お腹を苛めたくて、また人に良く見られたい思いからスカートのウエストもキツく締めてますます悪化。
悪循環
私は私の思い込みから私の良い所はウエストだけだとその時は思い込んでいました。
「私は今はそんなこと考えもつきませんが(涙)」
そしておばちゃんに相談してもお母さんにも「頑張れ!!!頑張れ!!!」と言われる・・・強制?される始末。
母より頼ってたおばちゃんにはついに「屁ぐらいで!!高校の目標なんてあんたなんてどうせそんな物ですか!
!?」
みたいに言われてしまいました。
私は私が悪いと思い
心が寝たきりのまま
学校に
ただもう内申の為、二学期学校に通いました。
でも、ある日
唯一の私の中での友達。塾での親友。心の支えだったあの子の
その子の隣りにいる時でさえ「臭いんじゃないか!!」と恐怖で身の竦む思い。
体がガチガチとこわばった時
「ああ、もうダメだ」と思いました。
みんなが受験の為頑張っている時期。
私は私の事をいつも「臭いんじゃないか!!」と怯えて
文で伝わる以上にその恐怖は私にとってもの凄いもので
「このまま生活さえもう出来ない私がいるのに。生きられないのに受験した所でどうなるんだろう」
と絶望しました
人の近くが恐い
机に近ずくのが 恐い
家でもずっと考えている
「なのに、受験・・・・?」
私はもう迷いきって絶望して
ねたきりの女でした
好きなこと
したいこと
するべきこと
するべきことも、おばちゃんも母ももう誰も私を動かせなくなっていました。
プライドも高かったから精神病院にはいきませんでした。
行きたくなかった。
そして塾にももう顔を出せなくなっていたけど、学校だけは(死にに )行って
親に言われたから受験だけして
見事トップの高校に合格。
周りの人もみんな喜んでくれました
母も おばちゃんも
親戚も
だけど私の心は
そんなものもう意味なんてなかった
自分を認められない
人も認められない歪んだ価値観を持ち
ただ死んだように恐怖だけを常に
目が覚めている間考え
感じて
死んでいってる 私に
ねぇ
その高校や出会う人関係あるかなあ?
素敵かなあ?
意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ある???????
だってもう恐くて、机に座って鉛筆さえ持てないよ
学校が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なに?
高校一年生になりました。
私はもう生きる屍状態で入学。
また怯えた学校生活が始まりました。
現実的に
ちゃんと優しい友達のグループに所属出来たし、中学とは打って変わった私を認めてくれる人達に囲まれてまし
た。
だけど
頭の中は
「臭いんじゃないか!!」ばかりで人の話しも耳に入らないし
当初は勉強したくて入った学校。なのに・・
鉛筆さえもてないくらい恐怖で体もガチガチ。
なのに、課題が多すぎて先生には叱られるし、どんどん悪循環。
もちろん前ほどではないけどオナラが出るのも続いていました。
そしてもちろん治したくて忙しい苦しい生活の中で
生活リズムにも気をつけるし沢山の努力もしました。
だけど
「もうダメだ。死んでしまう。生きていけない!!」
とついになったのが、高校の一年生の6月頃でした。
7月からもう学校には行きませんでした。
行けませんでした。
生きる為に家にいる事しか、もう私には出来ない。から。
学校に行けない自分を責める余裕さえもう残っていませんでした。
そんな精神状態。
小さい頃、夢見た華の女子高生の最初の夏休みは
ただ家で怯え寝たきり。親には責められる。
そんな毎日でした。
そうして、でも勇気を出して9月、学校に行きました。
でもダメだった。やっぱり無理。
そうして私は家にいました。
10月になって
不登校児の為の学校・・・フリースクールがあるというのを耳にしました。
親に言われたのもある。
自分が疲れすぎていて、自分自身どれだけ疲れて死にそうか把握出来なかったのもある。
でもとにかく私は
治したくて
元気になりたくて
希望を求めて
電柱もマンホールも恐くて車も恐くて
いちいち世界の全てが恐怖で
それでも生きたかったから
そのフリースクールに毎日自転車で通い始めました。
いま思うとかなり自殺行為です(涙)
半年通ってみて
ついに私はやっと
何処にも行けないし無理はしないと思い、
高校一年生の2月頃フリースクールも行かなくなりました。
(また行けなくなりました)
そうして家にいる時間が長くなり母とも沢山揉めました。
理解してもらう為に
なんども
なんども
なんども
話し合いもしました。
喧嘩して
沢山
沢山
沢山
沢山
沢山
悲しくて泣きました。
そうして高校二年生になりました。
なんの希望も見出せないまま春が訪れました。
ただ
治したい
治りたい
元気になりたい
その事だけを思ってやれる事は全部やり助けてもらえる人やものには
沢山沢山沢山
お世話になり、生きていました。ただ生きていました。
この頃はもう
高校はとっくに休学中。
心療内科に通いカウンセリングも受けていました。
でもどんどん悪化していって
たまに、家庭内暴力までするようになりました。
そうして「もう現実に耐えられない!!!!!!頭がボーとしてオシッコがもれてもいいから薬でボーとさせて
!!!」という精神状態になった
8月のある日
始めて強めのメンタルのお薬を飲みました。
副作用?で
地獄を見ました。
立つことも座ることも寝ることも出来ず
上半身がこわばって、こわばって
本当にいう事を聞かなくなり
まさに生きるゾンビ状態になりました。
脳から体に指令がいかず、全く上半身が動かないのです
まるで私以外の誰かが体に乗り移って私を殺そうとしているようでした
苦しくて、苦しくて
でも苦しすぎて死ぬことさえ出来なくて
自殺も出来なくて
でもやっぱり生きたくて
24時間ほぼ寝れずに息をするだけで
精一杯になったけど、その薬の副作用に耐えました
そうしてでも明け方奇跡が起きました。
神様が助けてくれたのか
まず見掛けコンプレックスが治ったのです。
「私は私だ!!!私の体を愛している!!!」と突然
命の叫びみたいな思いがボーとする頭を通して
体からパアッとフツフツと沸きあがってきました。
その瞬間「生きよう!これであたしの人生は変わる!!!!!!!!」
と思えました。
感動して涙が流れ切ると
また副作用で
死にそうな目に合いましたが、母と二人で
生きる為に必至に耐えました。
そして次の日の夕方症状が収まりました。
思い返せばこんな時もありました。笑
それからは
ダルくて、ダルくて
死にそうな日々もありました。
トイレまでオシッコをもらさず必至に我慢、我慢して
床を這って生きる日々もありました。
必至でした。
そしてそんな時、仲間にも助けられて
生きる希望が見えてきました。
それが9月の始め頃。
そしてなにがあったかは
誰にもきっと言えない。
自分の子どもにも言えないかもしれない。墓まで持っていくかもしれない。
知ってる人は 知ってる秘密ですが
そんな地獄を見た私は
17年生きた私は
生まれてから17年と4ヶ月耐え
17年と4ヶ月目の9月25日
命が助かりました。
幸せへの確かな扉が開きました。
今はまだ恐いこともあるけど
絶対に治って幸せになってしまうのが分かっているし
自分を愛すること
色んなものを信じて感謝することを
学んでいる日々です。
沢山の辛い思いを通して
だからこそ今、この瞬間も私が私でいれて
もう
ほんまに
凄く幸せ
です!!!!!!!!!!
これからは
自分を大切に
「自分」にしっかり軸をおいて
自信を持って沢山の心の宝物を持って生きていきたい。
社会と学校も人も
「私」
「S」
が関わっていきます。
なんだか文章が目茶苦茶ですが
「心」
で自分が感じているというものを中々的確に表すというのは難しいものです。
特に
昔と価値観がガラリと変わった
「今の自分」を文章にするのは難しいことです。
むしろ今は書きたくない。自分のことは。宝はしっかり
自分の中に詰めておきたいから。
循環させてこれからの
今からの私の素敵な芯になっていく。
今は沢山の夢と希望があり、私の周りには
感謝してもしきれないほどの
愛
が溢れています。沢山の幸せが私を待っているし、私は幸せです。
今は100パーセント元気じゃないし、まだ不安になることも正直あるけど
ねぇ幸せが待っているから、あるから
もう扉開いたから
今度は
自分をベースに大切に歩いていきたい
病名で言うと
多重人格障害
うつ
引きこもり
不登校
自己臭恐怖症
の私が
そんなだった私が
幸せに
「もの凄~い、あたし幸せ♪バカだよ~ん♪」
てなれます。
ありがとう
ありがとう
ありがとう
みんなにありがとう
そしてなにより、今までの自分にありがとう。
本当に
ありがとうございました
そして
長いのに読んでくれたG-gも本当にありがとう。
G-gは命を救われました。
辛い時ダメになりそうな時いつも助けられました。
今ここでついでに?笑
ありがとうを 送らせて頂きます。
★でわ★
G-g メモ
Sさんより、
平成21年9月23日(水)18時ごろ電話がかかって来る。
9/24泊めてくれないかと、姉が帰ってくるからとのこと
伴侶とSさんが話をする 15:00ごろに来るとのこと、
9/24朝10:09 連絡あり、出ていく力がない、・・・・電話したとのこと。
承諾をし、来ることにするが・・・母親には連絡済
9/24 14:30 Sさんより電話
体調すぐれず、病院にもいかず 家にいます。 お泊りは中止したいとのこと。了解しました。
自分に強くなる手がかりがつかめるかも・・
との連絡。 よかった、よかった!!
母親とたじまやプラザ(http://www.tadimaya.co.jp/plaza.html )、
http://fukinoto.naturum.ne.jp/
に出向いてくれて3ヶ月余・・・・・
お読みいただいた、感想等お知らせいただければと思います。
A4 23pです。長文です。時間のある時にお読み下さい。
090929-じぃじぃへ.doc
******
From: +++++.*****@ezweb.ne.jp
To: himejiwakamono@yahoo.co.jp
Date: Tue, 29 Sep 2009 14:19:08 +0900
学校に行けない、17歳の女性のメ-ルです。
母親とたじまやプラザ(http://www.tadimaya.co.jp/plaza.html)、http://fukinoto.naturum.ne.jp/
に出向いてくれて3ヶ月余・・・・・
お読みいただいた、感想等お知らせいただければと思います。
G-gへ
Sはやっと、自分の幸せについて歩き始めたように思えます。
毎日家の中でコツコツと成長していっています。
こうして向かっていく先(幸せな自分)が見えてきて…最近思うことがありました。きっとほんの少し心の深い所で余裕が出てきて…それは
やはり幸せになり歩き始めると(成長し始めると?)過去の事は忘れてしまうという事です。
今日は久し振りに親にまだ甘えてる自分を思い出す出来事がありました。今はイライラしてます。
子どもはやはり親の前では甘えた人格が出ると思います。少なくとも私はそうです。親に対して期待が出ます。
でもきっとこれはチャンスです。今日イライラしたことはこのメールの為の最後のチャンスな気がします
だから書きます
読んで下さい
これは過去
多重人格障害
うつ
引きこもり
不登校
自己臭恐怖症
そんな病気だった私の話しです
私は元々
かなり自由奔放な子だったそうです。(そして優しすぎた)
お父さん・お母さん・3つ上のお姉ちゃんが大好きな4人家族の末っ子。
1992年5月25日に生まれました。
感情を出すからもの凄い表情豊かでひょうきん♪
2歳くらいの頃には体操教室で体操なんて全くせず、一人走り回る子でした(笑)ちなみに同じような仲間も連れて(笑)楽しい事しかしたくなかった。
いつも悪ふざけばかり★
そんな頃カナダに行きました。始めて行った日はよく覚えています。
子ども心にビックリしたのかな。時間の流れや人種の違いを感じとったんだと思います。
みんなで卓袱台で(卓袱台(ちゃぶだい)は、大正から戦中を経て、昭和40年代にかけて、日本の家庭で一般に用いられた四脚で折りたたみのできる木製の食卓(テーブル)。食卓としての利用が基本の用途だが、机や作業台としても利用される汎用の座卓である。楕円形や四角形の物もあるが、一般的には円形をしている。)
マックを食べました(笑)
そして今からが精神的に大変でした。
うちのお父さんは子どもに甘える父親でした。
私は甘えたがりなのでいつも抱き付きました。でもその度孤独や怒りや悲しみが増えました。
お父さんに抱き付く度に心の葛藤があり、複雑な気持ちでした。
それはくっつく度に「お父さんとお母さんどっちが好き~!?」
など質問されるからです。
質問と言いましたがそれは、いわば脅迫でした。
その言葉の裏に
父の日々の疲れきった気持ち。「絶対に俺だよな!?俺じゃないと・・・・・」のような、とても繊細な心を子ども心に感じていたからです。
自分の本心・本音はいつも隠していました。
大好きなお父さんだからこそ傷ついた。
上のものに下の者が抑えつけられる。
私の心をネジ曲げられた気持ちでした。
心の奥ではとても悲しかった。いつもいつも。
でも、それでも父に甘えたかった。
私はどんどん「気遣い」な子になっていきました。
大きくなって思うのはカナダでは慣れない土地で皆大変だったと思う。
でもその頃は
母の笑ってはいるけど疲れた表情。
そしてとても繊細な姉の情緒不安定さと悪意を肌身に感じていました。
辛かった。
ちなみに
うちの父親は私と姉をえこひいきしていました。
これは大きくなって、自分が学校に行かなくなって初めて知った事でした。
私ばかりを可愛いがり、姉には…まあどちらかというと冷たかった。
やはり母も末っ子の私をある程度可愛いと育てていたと思うし。
繊細な姉はやはり暮らす中で両親を盗られた嫉妬・怒り・虚無感をいつも感じていたと思います。
今でも姉は 結構 私の事を「Sばっかり」と責めます。
そして「私は愛されなかった」という強烈な劣等感を持っています。
私はそういう方面にはわりかし無頓着でしたが(涙)
そして話しはカナダに戻ります。
ある日 そんな父親に決定的に絶望??・・・・したような時がありました。
彼が私にプレゼントと言って可愛い「ミニーちゃんのヌイグルミ」を買って来てくれました。
嬉しかった。
ここまではいいです。だけどハッと父の顔を見た時幼い心に妙に悟りました。
「あーこの人には甘えられないんだな。(信頼できない。心が繋がれない!)」
それは「ありがとうと御礼を言え!!!!!!」と父の表情からヒシヒシと伝わってくる心があったから。
そして私にはそれまで生まれてから甘えてきた時、逆にいつも甘えられて「この人といたら自分を隠して何か言
ったりしなければ!!」みたいな脅迫観念があったから。
ミニーちゃんの出来事は決定的に心がなんだか寒くなった瞬間でした。
その時はもちろん精一杯の笑顔で「ありがとう!」と言いました(涙)
親は嬉しそうな子どもを見てるだけで嬉しくなって、子どもも自然に感謝するものと私は思います。(なんだか
批判みたいになっていますが・・・)
だけど、その時の父親には、親の、子に対するエゴを強烈に押し付けられ、見せられた気がしました。
私は本当に悲しかった。何かを諦めようとした。
しかもその出来事の前からもう関係は私の中で崩れて来ていました。
そうしてカナダで過ごした幼少期の2年間が終りました。
日本に帰国。
その頃は3・4歳かな。
今度は、そこから小学1年生の夏まで日本で過ごしました。
日本に帰ってきた事で姉もようやく落ち着いて来た頃でした。
しかし今度はオランダへ。私は転校に対する不安はその時はあまり感じませんでした。
オランダの学校や土地は好きでした。楽しかった。親友もいたし、社会の中、私は充実した日々を送っていました。
だけど
家はいつも辛かった。家族といる時間を重ねるにつれ、心は貧しくなっていった気がします。
まず母親はまた慣れない土地が大変で疲れていたし。
お父さんも仕事がまた大変になり、どんどん精神的に荒れていったように思います。
そしてお姉ちゃんは大嫌いな転校(しかも海外)をまたした事で同じく荒れていました。
父と姉の二人はよく喧嘩しました。タワイもない事で。
父は姉と同じ精神レベルまで下がって二人して子どものような醜悪な喧嘩をします。ネチネチしていました。
父はもちろん父親として「叱る」事もありましたが、まあ遥かに!!
二人してただエゴのぶつけ合いが多い。多すぎる。繰り返す。
間に入っている母はいつも苦労していました。
姉の私に対する劣等感や転校に対する悲しみが解消されないまま、喧嘩の度に家族の亀裂はどんどん深まってく
ように見えました。
そして私は本当の自分を出せずどんどん「気遣いばかりする人間」になっていきました。
自分なんて無い。
心の傷は癒されず私の中に劣等感や苦しみはどんどん蓄積されていきました。
だけど学校が救い。あそこに行けば誰も私を傷付けない。
劣等感と言いましたが当時の私の悩みは「見掛け」でした。
キッカケは残念ながら姉が多いと思います。
姉からはよく見掛けの事をコケにされました。
「誰が見たってあんたよりあたしの方が綺麗に決まってるじゃない。当たり前でしょ!?なんなら鏡で見比べようじゃない」など。
元々自分にそんなに自信が無かった私。
心に突き刺さりました。写真を撮っても「変な顔~♪」と笑われたりしました。
苛められて辛くて我慢しても、初めて姉の前で大泣きした時にも「変な顔~♪アハハ」と楽しそうに笑っていまし
た。
自信が無かった私。言葉にさんざん傷付きました。でも何が一番傷付いたかって「私を傷付けよう」そんな気持ちが透けてみえる悪意に。
その心にいつも傷付きました。ショックだった。
人が辛くて泣いている時、こんなに笑う人間がいるんだ....
そして私はどんどん「そうかー私は変か。 そりゃあ美人じゃないのは知っていけど私はブスなんだ」
とドンドン思い込んでいきました。
正直、姉への見掛けに対する劣等感も段々出来ていったし(一度も表には出さなかったけど)見掛けに対するコンプ
レックスもどんどん大きくなっていきました。
小1の頃から鏡で自分の顔を見るのが嫌でたまらなかった。
写真を撮る時はいつも変なポーズと変顔をした。
ほら、こうしておけば笑われたってバカにされたって少しはまし。
まあでもこれもある日(し始めてから何年かたって)やめました。
その時の私には屈辱的なことに、姉に言われたからです。「まともに写真撮ってよ!!!」と(笑)
「いやいや、貴女が恐いから(色んな意味で)こういう事してるのに!!」など怒りや悲しみを伝えることは全然
出来ませんでしたが。
だって旅行中で周りに親がいたし、私が泣けばお父さんとお姉ちゃんがまた大喧嘩し、家がどういう空気になり
母がまたどれだけ悲しむかが頭の中で手に取るように想像出来ました。いつもその中で暮らしている私には分かっ
ていました。
まあそんなこんなで
小学4年生になりました。
家で父に気を遣いすぎている私。姉に気を遣いすぎている私。
顔を批判されるのが恐くて二人と目をしっかり合わせて会話が出来ない私。
でも気を遣って、もうそのスタイルしか知らなくていつも笑っている私
そんな私のまま。
夏休み日本に帰国しました。
この時初めて転校が嫌だと思いました。
私の心の支えになっている学校が変ってしまうから・・・・・不安
親が言うから仕方ない。そんな感じで自分を納得させたように思えます。
最初はA小学校。(私はあまり受けなかったけど苛めが酷い所でした)
もう精神のバランスが崩している私は学校でも友達は出来ましたが気を遣う本当の自分を出せない心の奥では見掛けの事を言われないかとビクビクしながら、言われたら更に自信を失って「心の引きこもり」そうなりながら学校生活を送っていました。
本当はいつもひとりぼっち。誰か安心させて
家の都合で
一学期間たって今度はH小学校に転校。小4の三学期。
ここでも「心のひきこもり」のまま中学まで上がりました。友達はいたけど、友達じゃなかった。
私の見掛けコンプレックスは思春期に差し掛かりどんどん強烈になっていきました。
そして家の父・姉・母のバランスもどんどん崩れていきました。
父はもう精神的に追い詰められてきて、ついには私にまで八つ当たりを始めました。ネチネチ とした嫌がらせ
そんな父を見てついに母も我慢限界
中学に上がる頃
ある日荷物をまとめてこっそり母と姉の私の3人で家を出ました。
別居
でも安心なんてなかった。私には家が狭くなったぶん、姉と顔を合わせて苛められる機会も増え、母と姉のスト
レスをビンビン感じて暮らしていたから。
三か月で8kgの激太り。ニキビもぶっつぶつ。
私はどんどん自分が嫌いになりました。
今思えば
ストレスを自分が劣等感を持つ事でいつも解消していたように思えます。
悪循環
もう学校に行く気力さえ無かったのに
家族と世間の渦の中頑張る事しか知らない私。
自分を大切に出来ない私。
大切なものが見えなくなって価値観が歪んでいっている私はもう疲れすぎて学校に行く気力さえなかったのに母に嫌われる事が恐くて、もう、お願いだから嫌わないで欲しくて(母が唯一のまだ安心で、優しい人に触れてきた経験がなく、いつも父や姉に見捨てられないか=殺されないか)と思っていた私は
それでも中学を通い始めました。別居する前に好きで入った塾にも通ってました。
親に申し訳ないから。
もう好きな塾さえ行く気力なんて無かったのに。それでも、何も分からないから。
頑張るしかない。
頑張る=人生だと勘違い・・・・・思い込んでいました。
中学では男子や女子に見掛けの事を言われました(太ったニキビ面だったし)
毎日毎日
友達もいなくていつも寂しくて死にそうだった。そうだからこそ笑うしかなくて、傷付けられて嫌な人達なのに明るく皆に振る舞ってピエロになるしかない。
家と同じ。
お願いだから
皆私を好いて下さい
あの頃の私は生きる為にしがみつく事しか出来ませんでした
全てにしがみついて必至でした
成績優秀の先生に好かれる優等生
でも
いつでも心は劣等生。そんな毎日でした。
楽しいことも嬉しいことも感謝も幸せなんて論外で機械みたいにマシンみたいに走り続ける事しか知らなかった。
それが全てだと。
何処かで絶対間違っていると思いながらも
そうして
その頃私は柔道部。小学校の頃からのグループの子達皆で入りました。
中学の一年生・夏まで。
ある日仲間はずれにされて無視されたから、今でも理由は分からないけれど
ギリギリの私にはそんな事実耐えられなくて部活をやめました。
本当に中学校で頼る人がいなくなった私には、その頃、友達が欲しくて溜まらなかった。
自分が傷付いてもいいから、だから一人はやめて欲しい。
今、思うと、そんな悲しい考え方ありません(涙)
相変わらず成績優秀で教師受けは良く塾には親友がいたから通ってました。
私はこの頃には…というか今思えば昔から。
自分を全否定する性格でした。
だから「頭が良い」事もなんの自信にもならない。
自分が頑張っている事も(頑張っている事さえ気付いてなかった)褒められても全く受け取れない。
でもそれは今思うと私の防御でした。
自分を否定する事でなんとか自分を保ち守っていた。そんな気がします。
私が求めているのは自分に対するほんとの自信や愛だから、
昔からきっとそうだから、
「頭がいい」なんてバカな言葉・安い言葉もウザくて、そんなものいらなかった。悲しくなるだけだから。
こういう事言うと親は「色んなこと褒めて来た」と言います
が
褒められて子どもが嬉しいのって子どもと信頼関係があるからこそでしょ?
要は「心の繋がり」がないと「褒め」は素直に受け取れないものだと思います。
あるいはまあその子が自分に自信があるかどうか、もちろん性格もあると思いますが
親が甘えさせてあげた事・子どもが感謝した事・親って凄いなあと思った事・一緒に心から笑い合った事そういう良いものが、思い出が、心の下地が信頼が積み重なって始めて子どもの心に「凄いね。」が響くんだと思います。
子どもだって生きている。
人間対人間なのに。みんな心があるんだから。
上と下。甘えあい。エゴのなすりつけ。
そんな悲しいことないよね・・・・?
て話しずれました(笑)
話し戻ります
中一の二学期からバスケ部へ転向しました。
もう何もする元気なんてトウにない癖に。
だって寂しすぎるからだって好かれたいからだって友達欲しいからバスケ部はクラブかと思うぐらいキツかった。
コーチが厳しくて熱くて強いチームでした。
もう途中から入った私はやっぱり人間関係で苦労。
先輩は恐いし(笑)先輩には嫌われてました。
みんなの輪の中にいるのも大変。
途中から同級生の子たちとは段々馴染めましたが。
そして
要はこんな感じです。
中学の大半は学校・部活・塾で目まぐるしかった。成績もトップの方のまま。
苦しい私をいつも支えてくれたのは塾にいる二人の親友でした。
何も学校の事や苛めの事、家の事なんてガッツリ話せないし相談も出来ない。
やっぱり何処かで嫌われたくない自分がいて。
話したくない、話せない、恐い。
だけど二人の存在がいつも救いでした。
二人は今でも友達。
あっ!!!
家はこの頃また一家四人で暮らしていました。
やっぱり大人の事情もあり、もう家族の絆もボロボロで離婚する前以上にドンドン父も荒れていきましたが、なんとか前の家でみんなで続いて?・・・いました。
そうして
中学二年生の冬がやってきました。
学校も家族も相変わらず。塾が救い。
この頃私の体に異変が起こり始め・・・・現われてきました。
「本能的に体がおかしい!イライラする!」と感じ、病院を回り、たどり着いた「整体」で言われた事
「もう50歳60歳くらいの体になっています。普通はバスケなんて絶対出来ないし、歩く事さえ辛いはず」
そんな風に言われました。
私の体は老人のようにガタガタに骨が歪み痛んでいました。
私には凄いショックでした。
体=見掛けに劣等感があり人一倍気にするし、気にかけて綺麗になりたいと努力する気持ちもあるぶん。
頑張ってきてくれた体に対して私は「皆より劣ってるんだ。やっぱり私はダメなんだ」なんて当時は考えました。
やはり人間いくところまどいかないと異変には気付かない。
ストレスでいっぱいの心から体がサインを出してくれていたのに。
この頃は勉強の方もやっとトップになれたけど嬉しくなかった。
本当は欲しくなかったそんなもの。だって幸せでも何でもないから
この頃からバスケ部はお休み。
またその人間関係もグシャグシャしてくるし、中3になった頃で受験も迫って来ました。
なのに、心はボロボロだし、老人のようなリハビリを頑張りながら学校に通う日々。
骨盤ベルトがないと生活が出来ない。
学校も休みがちになってきました。だって辛すぎる
私の頭の中にはこの頃前にもまして沢山の不安がありました。
まずは体
頑張って塾に通ってきたのに、休みがちだから内申のこと
私を見る母の目
私は母の理解を得ながら生活している事が一番辛かった。
こうやって自分が学校を休み始めて母から色んな事を聞かれるし、聞かされ、責められる事もある。
嫌われるんじゃないか。
というかもう、嫌われているからなんとか好かれなくちゃ!!という母に対してギリギリの思い。
母も長年疲れていて私にかける優しさももう無かった
母も父も姉もどうせ自分の事でもう精一杯
わたしも。
そして中3の春、うちは離婚しました。
離婚の悲しみなんてそんな幸せな気持ち。
私には無かった。
お父さんは出ていった。
お姉ちゃんも家を出て一人暮らし。
広くなった家に母と二人。
でも私は自分の生活で精一杯でした。
そしてもう恐い二人がいなくなったのに
玄関がガタガタっとする度「ビクビク」っとする癖は抜けないまま
私の時間はすぎ受験は近づいていきました。
母との関係もドンドン悪化。
私は私の理解者が甘えられる人が欲しくてたまらなかった。
必至だった。
リハビリをしながら心に色んなシガラミを抱えて生きながら。
そうした時、ふとした御縁で九州のおばちゃんに出会いました。
おばちゃんは霊とか見える人で占いをしたりしていました
要は私にとって母よりまだ信じられるし助けてくれる存在でした。
親切にしてくれました。(ホームステイさせてくれたり)
おばちゃんに助けられ私の体も回復していきました。
中学三年生の夏休み。
私は毎朝6時に起きてお弁当と朝食を作り、犬を散歩に連れていきながら、塾に通っていました。
体も痩せてきて…自分でいうのもなんですが綺麗になってきました。
でも相変わらずますます見掛けに対する以上なこだわりがありました。
綺麗になる事で逆に増えていった気もします(涙)
しかし綺麗になったと言いましたが表面上の事。
自分を全否定のあたしは努力も結果も自分に対する何も認める事は出来ませんでした。
自分は大嫌い。綺麗な訳ない。
だからやっぱり
ほら、褒められても嬉しくない。
そんな私。
そして中学三年生の2学期が始まりました。
内申にとって目指していたトップの高校に行く為、大切な時期でした。
学校に行くとみんなが見掛けを褒めてくれるようになりました。
嬉しい・・・・・・・・・・・・・・だけど
嬉しい訳がない。
逆に空しかった。
だって
自分の事自分で認められないから。それが一番欲しい事だから、きっと。
頑張っても、頑張っても空しかった。
そして私は相変わらずますます、いっぱいいっぱいな精神状態。
おばちゃんに電話をかけまくる始末。
今思えばいつも愛の厳しい言葉をハッキリ私に伝えてくれたおばちゃん。
でも私はおばちゃんに母を求めていた・・・それぐらい依存していた分いつも
その言葉の数々に
心の底で、激怒して傷付いていました。
でも、ねぇ
しがみつく事しか知らないから。
嫌われたくないから、好かれたいから、だから
また電話する。
憎しみが増えていく。
ごめんね、おばちゃん
おばちゃんは私みたいな不登校児の精神状態…気持ちなんて分からないだからこそ
良かれと思って、いままで私が関わってきた大人と同じように、それ以上に叱咤激礼
「頑張れ!!!頑張れ!!」時には責め苛んできます。
辛かった。嫌でたまらなかった。本当はね。
私はいわれるまま。
自分の全てを押し殺し(今だったら まじ有り得ない!考えられない!)
学校に通いました。
塾と学校の往復。
そうしてそんな生活ある日
私にとって、本格的に精神病になるキッカケになった大変な事が起こりました。
それは、オナラ。屁です(笑)
でも当時は笑い事じゃない。恐怖そのもの。
塾のテスト中でした。
私のお腹は痛くも無いのに、肛門から一呼吸する度に屁が出続けました。
体がおばあちゃんのようにこわばっているのに気付いてからは、体の事に敏感でますます劣等感のあるあたし。
しかも体がいう事を聞かない怖さを知っている私には
恐怖でたまらなかった。
でも、それでもその場で居続けテストを受けました。その恐怖の時間の積み重ねといったら
そしてついに私の心はおれました。
その日を境にお腹と不安の悪循環かオナラが出始めました。
学校に行くと いつも いつもずっとオナラが出て止まらないのです。これは事実。
誰に臭いと言われた事もないけど
女の子の私にとっては誰にも言えない。もの凄い 恥ずかしくて辛いこと
「臭いんじゃ ないかな!人に嫌われてしまうんじゃ ないか!」と
今までの心の癖も全て症状に出てますます
気持ちも心も悪化。
お腹を苛めたくて、また人に良く見られたい思いからスカートのウエストもキツく締めてますます悪化。
悪循環
私は私の思い込みから私の良い所はウエストだけだとその時は思い込んでいました。
「私は今はそんなこと考えもつきませんが(涙)」
そしておばちゃんに相談してもお母さんにも「頑張れ!!!頑張れ!!!」と言われる・・・強制?される始末。
母より頼ってたおばちゃんにはついに「屁ぐらいで!!高校の目標なんてあんたなんてどうせそんな物ですか!
!?」
みたいに言われてしまいました。
私は私が悪いと思い
心が寝たきりのまま
学校に
ただもう内申の為、二学期学校に通いました。
でも、ある日
唯一の私の中での友達。塾での親友。心の支えだったあの子の
その子の隣りにいる時でさえ「臭いんじゃないか!!」と恐怖で身の竦む思い。
体がガチガチとこわばった時
「ああ、もうダメだ」と思いました。
みんなが受験の為頑張っている時期。
私は私の事をいつも「臭いんじゃないか!!」と怯えて
文で伝わる以上にその恐怖は私にとってもの凄いもので
「このまま生活さえもう出来ない私がいるのに。生きられないのに受験した所でどうなるんだろう」
と絶望しました
人の近くが恐い
机に近ずくのが 恐い
家でもずっと考えている
「なのに、受験・・・・?」
私はもう迷いきって絶望して
ねたきりの女でした
好きなこと
したいこと
するべきこと
するべきことも、おばちゃんも母ももう誰も私を動かせなくなっていました。
プライドも高かったから精神病院にはいきませんでした。
行きたくなかった。
そして塾にももう顔を出せなくなっていたけど、学校だけは(死にに )行って
親に言われたから受験だけして
見事トップの高校に合格。
周りの人もみんな喜んでくれました
母も おばちゃんも
親戚も
だけど私の心は
そんなものもう意味なんてなかった
自分を認められない
人も認められない歪んだ価値観を持ち
ただ死んだように恐怖だけを常に
目が覚めている間考え
感じて
死んでいってる 私に
ねぇ
その高校や出会う人関係あるかなあ?
素敵かなあ?
意味・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ある???????
だってもう恐くて、机に座って鉛筆さえ持てないよ
学校が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なに?
高校一年生になりました。
私はもう生きる屍状態で入学。
また怯えた学校生活が始まりました。
現実的に
ちゃんと優しい友達のグループに所属出来たし、中学とは打って変わった私を認めてくれる人達に囲まれてまし
た。
だけど
頭の中は
「臭いんじゃないか!!」ばかりで人の話しも耳に入らないし
当初は勉強したくて入った学校。なのに・・
鉛筆さえもてないくらい恐怖で体もガチガチ。
なのに、課題が多すぎて先生には叱られるし、どんどん悪循環。
もちろん前ほどではないけどオナラが出るのも続いていました。
そしてもちろん治したくて忙しい苦しい生活の中で
生活リズムにも気をつけるし沢山の努力もしました。
だけど
「もうダメだ。死んでしまう。生きていけない!!」
とついになったのが、高校の一年生の6月頃でした。
7月からもう学校には行きませんでした。
行けませんでした。
生きる為に家にいる事しか、もう私には出来ない。から。
学校に行けない自分を責める余裕さえもう残っていませんでした。
そんな精神状態。
小さい頃、夢見た華の女子高生の最初の夏休みは
ただ家で怯え寝たきり。親には責められる。
そんな毎日でした。
そうして、でも勇気を出して9月、学校に行きました。
でもダメだった。やっぱり無理。
そうして私は家にいました。
10月になって
不登校児の為の学校・・・フリースクールがあるというのを耳にしました。
親に言われたのもある。
自分が疲れすぎていて、自分自身どれだけ疲れて死にそうか把握出来なかったのもある。
でもとにかく私は
治したくて
元気になりたくて
希望を求めて
電柱もマンホールも恐くて車も恐くて
いちいち世界の全てが恐怖で
それでも生きたかったから
そのフリースクールに毎日自転車で通い始めました。
いま思うとかなり自殺行為です(涙)
半年通ってみて
ついに私はやっと
何処にも行けないし無理はしないと思い、
高校一年生の2月頃フリースクールも行かなくなりました。
(また行けなくなりました)
そうして家にいる時間が長くなり母とも沢山揉めました。
理解してもらう為に
なんども
なんども
なんども
話し合いもしました。
喧嘩して
沢山
沢山
沢山
沢山
沢山
悲しくて泣きました。
そうして高校二年生になりました。
なんの希望も見出せないまま春が訪れました。
ただ
治したい
治りたい
元気になりたい
その事だけを思ってやれる事は全部やり助けてもらえる人やものには
沢山沢山沢山
お世話になり、生きていました。ただ生きていました。
この頃はもう
高校はとっくに休学中。
心療内科に通いカウンセリングも受けていました。
でもどんどん悪化していって
たまに、家庭内暴力までするようになりました。
そうして「もう現実に耐えられない!!!!!!頭がボーとしてオシッコがもれてもいいから薬でボーとさせて
!!!」という精神状態になった
8月のある日
始めて強めのメンタルのお薬を飲みました。
副作用?で
地獄を見ました。
立つことも座ることも寝ることも出来ず
上半身がこわばって、こわばって
本当にいう事を聞かなくなり
まさに生きるゾンビ状態になりました。
脳から体に指令がいかず、全く上半身が動かないのです
まるで私以外の誰かが体に乗り移って私を殺そうとしているようでした
苦しくて、苦しくて
でも苦しすぎて死ぬことさえ出来なくて
自殺も出来なくて
でもやっぱり生きたくて
24時間ほぼ寝れずに息をするだけで
精一杯になったけど、その薬の副作用に耐えました
そうしてでも明け方奇跡が起きました。
神様が助けてくれたのか
まず見掛けコンプレックスが治ったのです。
「私は私だ!!!私の体を愛している!!!」と突然
命の叫びみたいな思いがボーとする頭を通して
体からパアッとフツフツと沸きあがってきました。
その瞬間「生きよう!これであたしの人生は変わる!!!!!!!!」
と思えました。
感動して涙が流れ切ると
また副作用で
死にそうな目に合いましたが、母と二人で
生きる為に必至に耐えました。
そして次の日の夕方症状が収まりました。
思い返せばこんな時もありました。笑
それからは
ダルくて、ダルくて
死にそうな日々もありました。
トイレまでオシッコをもらさず必至に我慢、我慢して
床を這って生きる日々もありました。
必至でした。
そしてそんな時、仲間にも助けられて
生きる希望が見えてきました。
それが9月の始め頃。
そしてなにがあったかは
誰にもきっと言えない。
自分の子どもにも言えないかもしれない。墓まで持っていくかもしれない。
知ってる人は 知ってる秘密ですが
そんな地獄を見た私は
17年生きた私は
生まれてから17年と4ヶ月耐え
17年と4ヶ月目の9月25日
命が助かりました。
幸せへの確かな扉が開きました。
今はまだ恐いこともあるけど
絶対に治って幸せになってしまうのが分かっているし
自分を愛すること
色んなものを信じて感謝することを
学んでいる日々です。
沢山の辛い思いを通して
だからこそ今、この瞬間も私が私でいれて
もう
ほんまに
凄く幸せ
です!!!!!!!!!!
これからは
自分を大切に
「自分」にしっかり軸をおいて
自信を持って沢山の心の宝物を持って生きていきたい。
社会と学校も人も
「私」
「S」
が関わっていきます。
なんだか文章が目茶苦茶ですが
「心」
で自分が感じているというものを中々的確に表すというのは難しいものです。
特に
昔と価値観がガラリと変わった
「今の自分」を文章にするのは難しいことです。
むしろ今は書きたくない。自分のことは。宝はしっかり
自分の中に詰めておきたいから。
循環させてこれからの
今からの私の素敵な芯になっていく。
今は沢山の夢と希望があり、私の周りには
感謝してもしきれないほどの
愛
が溢れています。沢山の幸せが私を待っているし、私は幸せです。
今は100パーセント元気じゃないし、まだ不安になることも正直あるけど
ねぇ幸せが待っているから、あるから
もう扉開いたから
今度は
自分をベースに大切に歩いていきたい
病名で言うと
多重人格障害
うつ
引きこもり
不登校
自己臭恐怖症
の私が
そんなだった私が
幸せに
「もの凄~い、あたし幸せ♪バカだよ~ん♪」
てなれます。
ありがとう
ありがとう
ありがとう
みんなにありがとう
そしてなにより、今までの自分にありがとう。
本当に
ありがとうございました
そして
長いのに読んでくれたG-gも本当にありがとう。
G-gは命を救われました。
辛い時ダメになりそうな時いつも助けられました。
今ここでついでに?笑
ありがとうを 送らせて頂きます。
★でわ★
G-g メモ
Sさんより、
平成21年9月23日(水)18時ごろ電話がかかって来る。
9/24泊めてくれないかと、姉が帰ってくるからとのこと
伴侶とSさんが話をする 15:00ごろに来るとのこと、
9/24朝10:09 連絡あり、出ていく力がない、・・・・電話したとのこと。
承諾をし、来ることにするが・・・母親には連絡済
9/24 14:30 Sさんより電話
体調すぐれず、病院にもいかず 家にいます。 お泊りは中止したいとのこと。了解しました。
自分に強くなる手がかりがつかめるかも・・
との連絡。 よかった、よかった!!
2009年08月09日
神戸青少年会館相談交流会090809
神戸青少年会館相談交流会090809
雨でした。

姫路から出向くのが・・・・・・・

まねきの駅そばhttp://www.vzhyogo.com/~maneki/ekisoba/ekisoba2006-1.html

夏バ-ジョン 美味しかったです。一度お試し下さい。
駅そばのそばの冷えた分に、テンカス、かつお、梅干、わさび・・・・・ あっさりしておいしかったです。
三宮も大雨でした。待ってくれて相談者さん お待たせしております。
不登校、ニ-ト・・・・・ことでのご相談です。



次回は9月13日 神戸三宮 青少年会館 13:30からです。
姫路駅も、雨でした。


今 洪水警報が出ています。
雨でした。
姫路から出向くのが・・・・・・・
まねきの駅そばhttp://www.vzhyogo.com/~maneki/ekisoba/ekisoba2006-1.html

駅そばのそばの冷えた分に、テンカス、かつお、梅干、わさび・・・・・ あっさりしておいしかったです。
三宮も大雨でした。待ってくれて相談者さん お待たせしております。
不登校、ニ-ト・・・・・ことでのご相談です。
次回は9月13日 神戸三宮 青少年会館 13:30からです。
姫路駅も、雨でした。
今 洪水警報が出ています。
2009年06月12日
090612-姫路保健所相談業務
毎月 第二金曜日 姫路保健所相談業務 13:30~16:00 5F

ひきこもり家族の相談・「若者らの自立を考える交流会」を実施
090612-姫路保健所相談業務 13:30~16:00 5F 小会議室
次回は7月10日(金)13:30~16:00 5F で実施します。解決しょうと努力するための糸口を話し合ってみませんか?
考え方・方向性の振り返り、見極めを、そして若者らの考えていることを謙虚に聴く姿勢、
親子関係も社会契約としての考え方があることを・・・
交渉・折衝・要求・妥協・同意・合意・不服・不満-第三者に要請,介入・・・・・・成立・調印
ひとりで悩まずに、お出かけ下さい。
連絡先
姫路保健所 079-289-1635
ひめじ若者サポ-トステ-ションhttp://www.himeji-wakasapo.com/introduce1.htm
独立行政法人 雇用・能力開発機構 兵庫センタ-http://www.ehdo.go.jp/hyogo/
NPO法人 エンジェル
NPO法人花咲 ひまわりサロン姫路網干http://himawari-aboshi.com/ http://himawari123.naturum.ne.jp/e660141.html
NPOひきこもり地域支援センタ-播磨西(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)http://www.hyogo-vplaza.jp/event/group_detail.php?ID=5429
NPO情報センタ-ふきのとう姫路(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)
http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&prof_view=1
ひきこもり地域支援センタ-播磨西-兵庫県若者らの自立を考える交流会-
知っていただきたい、判っていただきたい、繋いでいただきたい、行動していただきたいとの願いから
ひきこもり地域支援センタ-播磨西-(兵庫県若者らの自立を考える交流会)
http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=865
おかげさまで、「ひきこもりに・・・」についても認知されようとしています。
ひきこもりとは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E3%81%8D%E3%81%93%E3%8… …
定義
以下では、行政機関等の定義をいくつか挙げる。
厚生労働省/国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰部による定義
「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」.※詳細については下記リンク先を参照。
国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰部「ひきこもり」対応ガイドライン
10代・20代を中心とした「ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン 斎藤環(精神科医)による「社会的ひきこもり」の定義
「20代後半までに問題化し、6ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」.
“思春期の問題である” .
“「社会的ひきこもり」という言葉は Social withdrawal という英語の直訳でいかにもこなれていない感じ”.
オーストラリア Association of Relatives And Friends of the Mentally Ill の定義
“Apparent reluctance to participate in "normal" interpersonal contacts of day to day life and retreat into one's own comfort zone.”(日常生活における「一般的な」個人間の交際に関わることに気が進まず、安全地帯に退避する状態)
参考:アメリカでの理解
“'Social withdrawal' is only one of many illness aspects that overlap with the results or symptoms of having chronic depression.”(慢性的鬱病が引き起こす症状の結果と考えられる病的側面の一つに過ぎない
いろいろありますが、現実に、多くの若者がひきこもり状態にあります。
今日、此処に ひきこもり地域支援センタ-播磨西
-(兵庫県若者らの自立を考える交流会)を立ち上げたいと思います。
たくさんの方の応援を得て、より多くの若者が自分の意志で 社会参加で出来る、
社会資源を構築する方途をお互いに考えていけばと思います。
現在、
新しい生き方を考える 「ほっとねっと 兵庫」
http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=679
情報センタ-ふきのとう姫路 たぢまやプラザ(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)
http://mall.hyocom.jp/community.php?bbs_id=10
等があります。
若者らの自立について、お力をお貸しいただければと考えます。
地域は、
姫路市 、たつの市、太子町、西播磨地域
対象:①中学・②高校・③18歳以上~34歳、④34歳以上
高齢者を含む、地域のサロン(ひまわりサロン)として、お茶を酌み交わし、
語らい、交流(相談)等を、チサン、チショウ等を大事に、老若男女が共に、
「和気藹々」の生活が出来る方途等を考え、少しずつ、継続して行動出来る方向で進む。
応援よろしくお願いします。
「全国引きこもりKHJ親の会」http://www.khj-h.com/
高砂・小野・姫路
ひきこもり家族の相談・「若者らの自立を考える交流会」を実施
090612-姫路保健所相談業務 13:30~16:00 5F 小会議室
次回は7月10日(金)13:30~16:00 5F で実施します。解決しょうと努力するための糸口を話し合ってみませんか?
考え方・方向性の振り返り、見極めを、そして若者らの考えていることを謙虚に聴く姿勢、
親子関係も社会契約としての考え方があることを・・・
交渉・折衝・要求・妥協・同意・合意・不服・不満-第三者に要請,介入・・・・・・成立・調印
ひとりで悩まずに、お出かけ下さい。
連絡先
姫路保健所 079-289-1635
ひめじ若者サポ-トステ-ションhttp://www.himeji-wakasapo.com/introduce1.htm
独立行政法人 雇用・能力開発機構 兵庫センタ-http://www.ehdo.go.jp/hyogo/
NPO法人 エンジェル
NPO法人花咲 ひまわりサロン姫路網干http://himawari-aboshi.com/ http://himawari123.naturum.ne.jp/e660141.html
NPOひきこもり地域支援センタ-播磨西(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)http://www.hyogo-vplaza.jp/event/group_detail.php?ID=5429
NPO情報センタ-ふきのとう姫路(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)
http://www.rak3.jp/home/rak2_pv.cgi?no=9484190&prof_view=1
ひきこもり地域支援センタ-播磨西-兵庫県若者らの自立を考える交流会-
知っていただきたい、判っていただきたい、繋いでいただきたい、行動していただきたいとの願いから
ひきこもり地域支援センタ-播磨西-(兵庫県若者らの自立を考える交流会)
http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=865
おかげさまで、「ひきこもりに・・・」についても認知されようとしています。
ひきこもりとは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E3%81%8D%E3%81%93%E3%8… …
定義
以下では、行政機関等の定義をいくつか挙げる。
厚生労働省/国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰部による定義
「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」.※詳細については下記リンク先を参照。
国立精神・神経センター精神保健研究所社会復帰部「ひきこもり」対応ガイドライン
10代・20代を中心とした「ひきこもり」をめぐる地域精神保健活動のガイドライン 斎藤環(精神科医)による「社会的ひきこもり」の定義
「20代後半までに問題化し、6ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」.
“思春期の問題である” .
“「社会的ひきこもり」という言葉は Social withdrawal という英語の直訳でいかにもこなれていない感じ”.
オーストラリア Association of Relatives And Friends of the Mentally Ill の定義
“Apparent reluctance to participate in "normal" interpersonal contacts of day to day life and retreat into one's own comfort zone.”(日常生活における「一般的な」個人間の交際に関わることに気が進まず、安全地帯に退避する状態)
参考:アメリカでの理解
“'Social withdrawal' is only one of many illness aspects that overlap with the results or symptoms of having chronic depression.”(慢性的鬱病が引き起こす症状の結果と考えられる病的側面の一つに過ぎない
いろいろありますが、現実に、多くの若者がひきこもり状態にあります。
今日、此処に ひきこもり地域支援センタ-播磨西
-(兵庫県若者らの自立を考える交流会)を立ち上げたいと思います。
たくさんの方の応援を得て、より多くの若者が自分の意志で 社会参加で出来る、
社会資源を構築する方途をお互いに考えていけばと思います。
現在、
新しい生き方を考える 「ほっとねっと 兵庫」
http://hyocom.jp/community.php?bbs_id=679
情報センタ-ふきのとう姫路 たぢまやプラザ(兵庫県ひきこもり世話人連絡会)
http://mall.hyocom.jp/community.php?bbs_id=10
等があります。
若者らの自立について、お力をお貸しいただければと考えます。
地域は、
姫路市 、たつの市、太子町、西播磨地域
対象:①中学・②高校・③18歳以上~34歳、④34歳以上
高齢者を含む、地域のサロン(ひまわりサロン)として、お茶を酌み交わし、
語らい、交流(相談)等を、チサン、チショウ等を大事に、老若男女が共に、
「和気藹々」の生活が出来る方途等を考え、少しずつ、継続して行動出来る方向で進む。
応援よろしくお願いします。
「全国引きこもりKHJ親の会」http://www.khj-h.com/
高砂・小野・姫路